異聞 『出雲国風土記』 4・3・2
異聞 『出雲国風土記』 4 ―歴史を生きる―
出雲の荒神谷遺跡では、国宝に指定された弥生時代の青銅器380点(銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本)が出土した当時の状態が再現されています。また現地にできた荒神谷博物館では、発掘時の映像が上映され、斐川町荒神谷ボランティアガイドの会から説明をしてもらえます。
この日のガイドさんは、荒神谷ボランティアガイドの会・幹事の佐藤陽一さんでした。佐藤さんは、荒神谷の青銅器の出土数が全国最大 であることは、古代史上の出雲がいかに繁栄していたか、いかに大きな力を持っていたかを示す歴史の証拠です、と誇らしく語っていました。出雲の歴史を学び、誇りを持って、ガイドに参加しておられる姿勢に、歴史を生きている出雲人のたしかな存在を感じました。また、考古学というものが、過去の真実の歴史を正しく伝えることによって、今を生きる人々に、生きる力を与えているように実感しました。 そのとき私の脳裏に、20年前のにがい記憶が蘇ってきました。佐賀県の鳥栖・安永田遺跡から古式銅鐸の鋳型が初めて出たときのことです。銅鐸の編年をやった学者S氏が佐賀の鳥栖市に来て講演し、「九州の銅鐸は、近畿の銅鐸工人が鋳型を持ってきて造ったものだ」と高らかに宣言したのが、脳ミソに突き刺さったように忘れられなかったのです。そういえば、荒神谷のときは、そのセンセイたちは、「近畿勢力が国家鎮護のために銅鐸を国境の出雲に埋めたのだ」といったのを思い出しました。このように地域の古代文化のすべてを大和中心に置き換えていく学者には、島根県では中学生でも知っている「出雲神宝の埋蔵伝承」などは、郷土びいきの迷妄としか映ってなかったようです。
「出雲神宝の埋蔵伝承」とは、『出雲風土記』「大原郡神原郷(注1)」に「古老の伝えて云く、天の下所造(つくら)しし大神(注2)が神宝(みたから)を積んで置かれた処」と明記されている古伝承です。
1996年10月に銅鐸が39個も発見された賀茂岩倉遺跡は、この荒神谷遺跡から東南3キロの至近距離にあります。膨大な青銅器を地中に埋納した二つの遺跡からは、その祭祀の中心になる「神名火山」(仏経山)がくっきりと望めます。
私はこの『出雲風土記』の「埋蔵伝承」が、まず①弥生時代からの伝承であったことに、大きな意義を認めたいと思います。弥生時代の青銅器を埋めた二つの祭祀場が「神庭荒神谷」と「賀茂岩倉」という地名で語り継がれてきたというわけです。②「神庭荒神谷」と「賀茂岩倉」という地名に歴史的意義を認めたいと思います。大国主命は別名八千予矛神とも呼ばれ、たくさんの青銅武器を持っていた神であり、その武器を埋める祭祀が「神庭荒神谷」と「賀茂岩倉」という歴史地名で語り継がれてきたわけです。「出雲の神宝」伝承があらためて万人の納得できる歴史的事実になったのです。
中津の中尾七平さん(医師)は、三十年も前から、出雲風土記の神宝埋納伝承を、弥生時代の青銅器を磐座(いわくら)
に埋納した伝承であると理解し、各地の磐座や青銅器埋納遺跡を調査し、銅剣・銅鐸の発掘前にもここを訪ね、二つの地名と神名火山(仏経山)との関係がふかい、と言及しておられました。
いったい出雲のこの青銅器は、ほんとうにヤマトの所有だったのでしょうか。そのように言っているのは、実は、現代のヤマト国家に飼いならされている国立研究機関のお抱え学者たちではないでしょうか。歴史の真実は、ガイドの佐藤さんが言われるように『出雲国風土記』に書いてあるとおり「出雲の神原郷」は「大神の御財(みたから)を積み置きたまいし処」なのです。 わたしたちは、いまこそ、『出雲国風土記』が弥生時代の青銅器(神財)を埋めていた場所まで記録していたことの偉大な意義を素直にうけとめることが必要です。そのさい、だれが歴史をねじ曲げたのかを考えることも、歴史をまなぶ者の大事な課題だと思います。
注1:大原郡賀茂町神原、注2:大国主命の別名。
異聞 『出雲国風土記』 3『三国志』魏書・東夷伝の濊貊
「高句麗は、遼東郡の東1千里の所にあって、南は朝鮮・濊貊と、東は沃沮と、北は扶余と境を接している。」「埋葬の礼は盛大で、金銀財宝は葬礼のために用い尽くされる。石を積んで墳丘を作り、松や柏を並べて植える。この国の馬はみな小柄で、山をもぼるのに慣れている。民衆は意気盛んで、戦闘に慣れており、沃沮や東濊は皆その支配下にある。」 (高句麗伝]
「濊は、南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と境を接し、東は大海の岸辺にまで及んで、いまの朝鮮の東部はみなその土地に含まれる。戸数は2万。むかし箕子が朝鮮にやってくると、八条の教えを定めて教化したため、住居を閉ざす門戸を作らなくても泥棒をはたらくような者はなくなった。その子孫で四十数代目にあたる朝鮮侯の準が〔中国の承認も得ないままに〕王を僭称した。陳勝たちが兵をおこし、天下のものが秦の支配に反抗したとき、
燕や斉や趙の民衆は戦乱を避けて朝鮮に移住し、その数は一万人にものぼった。燕の出身の衛満は、〔この地にやってくると〕魋結(ついけい)(さいづち形の髷(まげ)を結い、土地の人々と同じ服装をして、〔箕子に代わって〕この地に王者として臨んだ。漢の武帝は、衛満の朝鮮を討ち滅ぼすと、その地を分割して四つの郡をおいた。これ以、土着民と漢族の移住民との間にいささか区別をつけられるようになった。
大君長はなく、漢代以来、侯邑君・三老といった官があって、下戸(平民)たちを統治している。その他の古老たちは、自分たちは句麗と同じ種族だと古くから言い伝えてきた。人々の性格は質朴で欲望にふけることなく、廉恥(れんち)を知って、自立の精神をもっている。言葉や風俗はだいたい句麗と同じであるが、衣服に違いがある。男女の上衣はともに曲領(きょくりょう)(まるくび)のものをつけ、男子ははば数寸の銀製の花模様を結び付けて飾りとする。(濊伝)
図1. 2~3世紀の東北アジア朝鮮(「三国志」ちくま学芸文庫)
異聞 『出雲国風土記』 2. 2~3世紀の濊貊
単単大嶺(たんたんたいれい)以西の地は、楽浪郡の支配下にあり、大嶺より東の七県は楽浪東部校尉が治め、ともに濊族がその住民を構成している。のちに校尉が廃止され、濊族の首領が侯に封ぜられ た。現在の不耐(ふたい)濊(わい)がみなその種族のものである。漢末になると、今度は句麗の支配下にはいることとなった。その
風俗として、山や川が重視され、山や川にはそれぞれに所属するところがあって、みだりに他人の山や川に入りこむことは許されない。同姓の者は結婚しない。
忌諱(きたん・タブー)が多く、病気や死者が出ると、そのたびごとにもとの住居を棄てて、新しい住居を作りなおす。麻布を産し、蚕を飼って綿(まわた)を作る。星占いに
通暁(つうぎょう)していて、その年の実りの多寡(たか)を予知する。珠玉は珍重されない。十月は天の祭りの月とし、昼夜にわたって酒を飲み歌をうたい舞をまう。この行事を「舞天」と呼んでいる。また虎を神として祭る。邑落のあいだで侵犯があったときは、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。この制度を責禍(せきか)と呼ぶ。人を殺した者は死をもって償わされる。
略奪や泥棒は少ない。長さ三丈の矛を作り、時に数人がかりでこれを持ち、巧みに徒歩で戦う。楽浪の壇弓(だんきゅう)(まゆみの木の弓)と呼ばれる弓はこの地に産する。海では班魚の皮を産し、陸地には文豹が多く、また果下馬を産出して、漢の桓帝のときこれが献上された。
〔一〕臣裴松之が案ずるに、果下馬はその背丈三尺。これに乗ったまま果樹の下を通ることができる。それで果下と名づけられたのである。この馬のことは『博物誌』や「魏都の賦」に見える。
正始六年(245)楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵とは、領東(嶺東)の濊が句麗の支配下に入ったことから、軍をおこしてこれを攻めた。不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。その八年、魏の朝廷にやっててきて朝貢をし、詔があって改めて不耐濊王の位が授けられた。〔王といっても特別な宮殿があるのではなく〕一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所にやってきて朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、彼等にも税や夫役が割り当てられ、普通の郡の住民と同じあつかいを受ける。」(濊伝)
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コメント
先生、お久しぶり♪
大賀蓮の種が売っているんですね。
うちの近くの小金井公園の側の真蔵院というお寺は
大賀蓮の名所なんで
毎年、この初夏に見に行きます。
↓ 人のHPですけど...。
http://himiku.maxs.jp/fuwafuwa/oogahasu/oogahasu.htm
うちで咲いたら感激やね☆
投稿: ゆうみ | 2008年11月 8日 (土) 20時36分