秋の花たち 8

499_27 出雲の熊野神社は、意宇川(おうがわ)の上流に祀られています。いまの祭神はヤマトから入ったスサノオ神で、火をきり出すわざを教えた神ということになっています。しかしスサノオ神が入る以前の意宇には、食物神の神魂(カモス)神がまつられ、そのカモス神を祀った司祭者・意宇氏の子孫が出雲国造家の千家(せんげ)、北島(きたじま)の両家だと言われています。ヤマトの勢力と手をむすんだ意宇氏は、のちに出雲国造家となりましたが、政治の実権はヤマトに奪われ、祭祀権だけをゆるされて、杵築のほうに追いやられました。意宇氏がさいしょに熊野大神を祀った所は、近くの天狗山(610m)頂上にある磐境(いわさか・祭祀場)だといわれています。(加藤義成「古代出雲王国」『古代王国の謎』角川文庫)

499_29 『出雲国造神賀詞(いずもこくぞうかんよごと)』によると、その磐境に祀られた熊野最古の神の名前は、「伊射奈伎乃日真奈子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」(イザナギノヒマナコカブロギオオカミクシミケヌノミコト)という長い名前です。この神は、記紀に伝える天地創造にあたったイザナギ神の御子ということになっています。出雲の数多い神々のなかで、この熊野大神だけが天つ神に入っているのです。なぜでしょう。ヤマト勢力とさいしょに手をむすんだ意宇氏が、意宇川流域(東出雲)の統合をはたし、やがてそこに出雲国庁や国分寺、国分尼寺がつくられ、古代出雲の政治と文化の中心になっていく歴史がうかがえます。

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秋の花たち 7

499_95

『古事記』によると大国主神(オオクニヌシ)をはじめとする出雲神話の神々は、高天原を追放された須佐之男命(スサノオ)の子孫になっています。いっぽう、『出雲国風土記』に出てくる出雲神話には、スサノオはじめ高天原系の神々はだれも姿をみせないのです。なぜでしょう。 高天原を追放されたスサノオが、奥出雲の肥の川上流で繰り広げた、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治の有名な神話さえも風土記には見られないのです。

高天原を追放されたスサノオは、出雲の肥の川(今の斐伊川・写真、天井川で有名)に天降りますが、川辺で一人の娘を連れて泣いている老夫婦に会いました。わけを聞くと、川上に八股の大蛇(ヤマタノオロチ)がいて、毎年来て娘を食ってしまい、残ったのはこの櫛稲田姫(クシナダヒメ)だけと泣きます。

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オロチはどんな姿かと聞けば、「その眼は赤かがち(ホオズキ)のごとく真っ赤で、身ひとつに八つの頭、八つの尾あり。またその身に苔と檜・杉が生え、その長さは谷八つ、崗八つにわたり、その腹を見れば、どこもみな爛れて血がながれている」といいます。

このヤマタノオロチの姿は、出雲で砂鉄を原料にたたら製鉄が始まる古墳時代後期(六世紀後半)ごろ、山の斜面に水樋をひいて砂鉄を取るカンナ流しの情景と、谷間ごとに製鉄炉の火を燃やした斐伊川上流のタタラ製鉄の描写にほかならないのです。       

漢字学者で『学研漢和大字典』を編集した藤堂明保氏(故人・東大教授)は、最後の著書になった『中国遺跡の旅』(旺文社文庫)のなかで、中国の竜蛇信仰との関連で、出雲の八股のおろち伝承をとりあげていますが、「肥の川(火の川)は太古からタタラ製鉄の盛んな地で、砂鉄の赤い色が流れを染め、吹きあげるフイゴの火の粉が川の面に赤くうつります。火がもえているようなのでヒノカワと呼んだのでしょう。しかし製鉄用の炭を得るため大量の木を切るので、山肌が荒れて水害を起こします、その荒々しい水の精が八股の大蛇でした。川の下流の水田を守るにはこの大蛇の動きを封じなければなりません。櫛稲田姫という名がしめすように、この姫は水田耕作民の代表です。スサノオとは「須佐という地の男」という意味で、外来の男と土地娘、このふたりのしあわせな生活は、悪蛇を封じ込めることによって保障された―というのが、この説話の筋なのです」と解説しています。 

499_63 スサノオは、クシナダヒメを櫛の姿に変えて自分の髪にさし、オロチを退治するため、八つの門と桟敷の付いた垣根を作らせ、桟敷ごとに強い酒をいれた器を置いておきます。やがてオロチがきて、器みごとに頭を突っ込んでその酒をのみ、酔ってそのまま寝てしまいました。スサノオが、自分の十拳剣(注1)でオロチを斬ると、肥の川が血にかわって流れました。それでこんどは、オロチのまん中の尾を切ると、剣の刃が欠けました。スサノオは怪しく思い、剣でオロチの尾を割いてみると、「都牟刈(ツムガリ)の大刀」(注2))がありました。

スサノオは、出雲の須賀の地に新婚の宮をつくり、クシナダヒメと結婚しました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を (『古事記』より)。

出雲に初めて登場した高天原系(大和系)のスサノオは、クシナダ姫を妻に、たくさんの子孫を残します。出雲を治めた大国主命もその一人なのです。スサノオの八股の大蛇退治の最後が、鉄の「大刀」の出現で終わるところにも、この神話の起源が奥出雲のタタラ製鉄にあることがうかがえます。しかし『出雲国風土記』にスサノオの大蛇退治の神話がないのは、なぜでしょう。そのわけを知るために、私は『出雲国風土記』の末尾にある最終筆録者として署名している、   

「国造かつ意宇郡大領 外正六位上 勲十二等 出雲臣広島」という人物に注目しています。

499_30 彼の先祖は、すでに意宇郡の熊野大社のぺージでふれたように、スサノオが出雲に来る前から意宇氏をなのり、意宇川流域の開拓につとめ、農業神を祀っていた祭祀集団であったようなのです。自分の先祖がヤマト系のスサノオではないことを、いちばんよく知っている人物です。この出雲国風土記の完成年月は「天平五年五月(733年)」で、『風土記』を撰進せよという官命が出された和銅六年(713年)から二十年もたっています。 和銅五年(712年)には太安萬呂の『古事記』も出ており、そこに書かれた出雲神話のあれこれが、「出雲国造かつ意宇郡大領」の「出雲臣広島」の耳に伝わっていた可能性も大いにあるでしょう。「出雲臣広島」には自分の出自(先祖)がヤマト勢力によって書き換えられたという認識があって、おそらく撰進する『出雲国風土記』から創作性のつよい古事記系神話を排除したのではないかと思います。このことは、次回にのべる『出雲国造神賀詞(いずもこくぞうかんよごと)』をこの問題に対比させれば、はっきりします。

注1:『日本書記』では、この剣を「蛇の韓鋤(オロチノカラサヒ)」と書いています。[古代韓国語で、鋤はtsapoという。日本語のサヒ(小刀)に当たる。(岩波文庫『日本書紀』注)]

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秋の花たち 6

499_102_3 山陰の弥生首長墓は、四隅突出墳丘墓とよばれています。出雲市の西谷3号墳の復元が完了していました。裾に大きな石を積んでいる形は、やはり、高句麗の初期積石塚を彷彿させます。前回、古曾志古墳のところでも、集安の将軍塚を連想したと書きましたが、この私の直感は十月上旬に行った高句麗・恒仁の初期積石塚の見学でたしかめられました。

214_2 写真は、高句麗の最初の都・恒仁の高力墓子村の方形積石塚です。封土の部分は小さな川原石で、裾には四角い大きな割り石をならべており、上からの写真でないとよく見えませんが、コーナーにやや大きな四角い割り石(写真左端の大石)を据えており、それが少し突き出ているので、四隅突出型になっているのです。この種の積石塚は、恒仁だけでなく、集安の山城下墓群でもいくつか見られます。この種の初期積石塚は鴨緑江の南、朝鮮半島の北東部(江原道からカン鏡道南部)にも分布しています。ここに住んでいたのは高句麗支配下の穢貊(わいぱく)族とみられています。高句麗古墳についてはHP「古代史の窓」の遺跡めぐりのページで別にかきます。

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秋の花たち 5-2

出雲荒神谷の青銅器といえば、最初に発見された中細形銅剣の大部分に、茎(なかご)のうえに061、鋳造後、鏨(たがね)で打ち込まれたらしい×印の刻印がありました。中細銅剣は形の上では九州系の青銅器ですが、このような刻印を打った例は、九州にもないようです。この×印にはいったいどんな意味があるのでしょう。    昭和59年の発見以来、島根県では新出土の度にシンポジウムが催され、研究書や報告書、図録がたくさん出ました。それを読むかぎり、×印の意味は、まだ考古学者には霧の中といった状態です。 

しかし、荒神谷銅剣の発見以前に、×印の謎は、漢字学者の甲骨文研究によって、十二分に解明されていた、と私は考えるのです。       漢字学者・白川静の「×の呪力」(『文字逍遥』平凡社所収)は、昭和56年発表の論考ですが、出雲荒神谷の遺跡を見ながら書いているように、×が悪霊に対する呪禁であることを、甲骨文字の×記号を論拠に論証しているのです。

059 「×は極度の否定を意味している。それは死への恐怖、死の汚わいに対するものであった。死は凶懼(きょうく)の果てにあるものであった。その死者の胸部に、この否定標識が加えられる。胸部の凵形の中央に×を加えて、ここに凶悪のあることを示す。その字が凶⑥である。匈(きょう)はこれに人の側身形の勹(ほう)を加えた形で胸の初文。恟(きよう)は胸騒ぎ、胸は匈に身体の限定符である肉を加えた形である。兇懼の人を兇(きょう)⑦という。凶を強調した人の姿である。」(白川静『文字逍遥』平凡社文庫版 290ぺージ)

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秋の花たち 5

499_87出雲大社本殿のすぐ東隣りに、あたらしい島根県立古代出雲歴史博物館ができました。まず大社に近い食堂で、昼食をとり、出雲そばをたべました。093 おもしろいことに、その食堂の美人ウエイトレス(女主人かもしれない)が、大社と歴史博物館への道案内をしてくれるのです。有名な本殿の三本組みの大柱は、本殿が改築中で見られませんでした。

499_90_2小旗を手にした彼女が、発掘中の大柱の写真が展示してある場所で、高さ48メートルという巨大神殿の謎について詳しい説明をしてくれたのです。「雲太・和二・京三(うんた、わに、きょうさん)」という平安時代からの戯れ歌でつたわる巨大建築のベストスリー(一位出雲大社、二位東大寺、三位平安京大極殿)をあげ、大昔から出雲の神が神霊界の頂点にいたことを熱心に話すのです。正直、驚きました。 この方も、出雲の歴史に誇りを持って生きているのを感じました。

499_94 本殿わきのほうから、白い着物と袴をつけた人物が数人のお供を連れて出てきました。「アッ、あの方が大宮司の千家尊祀(せんげたかとし)さんです」と言って、彼女はその人物に目礼をおくりました。すると、大宮司さんが、ゆっくり近づいてこられました。「どちらからおいでですか」「筑前です」と同行の井上菊雄さんが答え、以後、数分の間、井上さんとたいへん面白い立ち話がつづきました。いまの大宮司はたしか八十四代にあたり、まさに万世一系で古代からつづいた家柄です。物腰が悠然としていて、なんとなく天皇に似ている感じがします。むかし、出雲のたたら製鉄を調べに、奥出雲に入ったとき、阿部さんという元神官から聞いた話しを思い出しました。 尊祀氏の祖父に当たる出雲大社の大宮司が、当時の島根県の有力者に、古代出雲王権が大和に国譲りをしたことに対し、騙されて国を取られてしまったと、現代の事件のように悔しがっていたという話しです。

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秋の花たち4

499_113出雲の荒神谷遺跡では、国宝に指定された弥生時代の青銅器380点(銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本)ガ出土した当時の状態が再現されています。また現地にできた荒神谷博物館では、発掘時の映像が上映され、斐川町荒神谷ボランティアガイドの会から説明をしてもらえます。

499_109この日のガイドさんは、荒神谷ボランティアガイドの会・幹事の佐藤陽一さんでした。佐藤さんは、荒神谷の青銅器の出土数が全国最大 であることは、古代史上の出雲がいかに繁栄していたか、いかに大きな力を持っていたかを示す歴史の証拠です、と誇らしく語っていました。郷土の歴史を学び、誇りを持って、ガイドに参加しておられる姿勢に、歴史を生きている出雲人のたしかな存在を感じました。歴史の真実が人に生きる力を与えているように思います。そのとき私の脳裏に、佐賀県の鳥栖・安永田遺跡から古式銅鐸の鋳型が出た20年前の記憶がよみがえってきました。銅鐸の編年をやった学者S氏が鳥栖に来て講演し、「九州の銅鐸は、近畿の銅鐸工人が鋳型を持ってきて造ったものだ」と言ったのが、脳ミソに刺さったように忘れられなかったのです。そういえば、荒神谷のときは、そのセンセイたちは、「近畿勢力が国家鎮護のために銅鐸を国境の出雲に埋めたのだ」といったのを思い出しました。

092 094 荒神谷遺跡のすぐ脇に、六月中旬に、約五千株、五万本の花が咲く蓮池があるのです。しかし今は、池の水がきってあり、資料館の売店で、弥生時代の実を咲かせた「2000年ハス」の実が売っていました。来年はきっと咲かせて見たい。

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秋の花たち 3

499_53_2 九月の下旬、出雲と石見を3日間、回ってきました。

出雲の古曾志古墳は、宍道湖を眼下にみわたせる岡のうえに復元された、巨大な石積みの前方後方墳です。これを見たとき、私は一瞬、高句麗の積石塚や切石積の将軍塚古墳を連想しました。出雲の方墳の源流は、高句麗ではないだろうか。この思いは、さらに出雲や広島の四隅突出墳を見たときにも、感じました。

499_83 九月二十日、湯の川温泉に泊まり、翌朝、斐川町に出ると、一帯がヒマワリ畑で、花がまだ満開なので、びっくりしました。先週から花祭りがあったらしい看板がでていました。福岡ではヒマワリはだいぶ前におわっているが、、、あとで聞くと、祭りの日取りに合わせて、花の種まきを遅くするのだそうです。

499_81 『出雲風土記』は銅鐸が39個でた賀茂岩倉遺跡の地を次のように書いています。「神原郷。郡宮の西北九里。古老の伝えていわく。天の下造らしし大神の御財を積み置き給いし処なり。即ち神財(かみたから)と言うべきを、今の人なお誤りて、神原の郷というのみ。」

Imgview1 1996年十月、大穴持命の神宝を積み置いたという伝承地に、神の示現さながらに大・中・小の銅鐸が入れ子になって、ぞくぞくと姿をあらわしたのです。また、青銅器380点(銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本)がでた神庭荒神谷は、ここから北西3キロのところにあり「景初三年」銘の三角縁神獣鏡をだした神原神社古墳はここから西に5キロの位置にあります。古代出雲の王権が鉄生産に先立って高度な青銅器の冶金技術をもっていたことは疑いない。この技術はどこから来たのでしょうか。

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秋の花たち2

024_9 9月下旬のある夕方、娘のバンドが遠賀駅前のドラム館で、小さい演奏会を開きました。うちの二人の孫娘は、バンドの歌姫です。この日は、ホームステイの二人のお友達も歌に出演し、ほとんどものおじしないで、水玉がはしるようなきれいな声で、英語の歌を披露してくれました。

015 明日香川行きみる丘の秋萩は 今日降る雨に散りか過ぎなむ 

丹比国人作 『万葉集』八-一五五七     

秋が深まって、薄紫のハギの花が色づく日々です。萩の歌は万葉集で一番多く歌われているそうですが、私もこの花のうすむらさきが大好きです。いま、小倉の朝日カルチャーで、「二つの百済ー日本書紀のひみつ」という古代史講座をやっていますが、明日香(飛鳥)は、滅亡した百済の謎を解くキーワードのひとつです。飛ぶ鳥と書いて、なぜアスカ(明日香)とよむのでしょう。私の講座はそんな疑問から入っていきます。         

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秋の花たち1

001_4 彼岸花が咲きそろった九月の下旬、遠賀町の国際交流行事で、ニュージーランドの中学生が二人、十日ほど、私の家にホームステイしました。じつは8月の夏休みに、遠賀中学2年生の孫娘がニユージーランドに行き、こんど来た二人の家や学校で、夏を過ごしたのだそうです。

024_2 ニユージーランドの子供たちは、もちろん日本語はできませんが、簡単な英語で、けっこう通じ合う会話をみにつけていくのに、感心しました。家族総参加で、手づくりのギョウザを作って、たのしみました。子供たちは昼間、いっしょに遠賀中学に行って、授業やクラブ活動に参加するのです。

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続・金印と卑弥呼の話10

青柳種信はKinin_397 、志賀島から出た後漢の金印に刻まれた「委奴国」について、師・本居宣長の説にしたがい「倭奴国は皇国の惣号にあらず」といい、それを論証するためにまず「後漢書」を引用しています。                     「倭は韓の東南大海中にあり、前漢の武帝が朝鮮を滅ぼすまで百余国に分かれ、漢に使をだしていた。そのごも三十ばかりに分かれた国がみなそれぞれ王を称してきた。その大倭国は邪馬台国に居る云々」と「後漢書」を引用。さらに同書には「倭奴国は倭国の極南界也」とあるので、倭国のなかの南の辺にある地名であることがわかる。また「この委奴国もその三十許国のなかの一つであって、いにしえの国造などといった人々をさすものであろうと思う。さて、委奴国というのは日本のうちのどの地方かと考えてみたら、筑前国の怡土郡をさすことに確信がある。 怡土郡を魏志倭人伝には、「伊都国、千余戸あり。世々、王ありて、みな女王国を統属す。郡使が往来するに、常に駐するところ」とあり、「世々、王あり」というのは即ち、怡土県主などをいうのであろう。この県主の祖先は、高麗国王の王子・日槍(ひぼこ)とみえたれば、もとより異国人なれば、はやく漢にも通じたものであろう。さて、怡土県主の祖・五十跡(いとで)のことは、日本書紀に見え、船に白銅鏡や剣をかかげ、穴門の引島に仲哀天皇をむかえたとあり。後漢・光武帝の金印・紫綬を受けたのは、五十跡よりも二三代ほど前の先祖であろう。魏志の頃は、神功・応神の頃であるから伊都国王と偽ったのはこの五十跡のことを指しているのではなかろうか。(現代文訳は奥野)  

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