おらが春 1

011_18 2月22日。浅木小学校で、この数年らい毎年見に行っている卒業生を送る会があった。この日、卒業生54人が創作ダンス「浅木ソーラン」「絆(きずな)」「アサギ2007」を披露した。若い世代に絶望するような風潮にたいして、この子供たちの群舞は、未来につながる強烈な主張があふれていて、爽快感がある。踊りの終盤では、目頭をおさえる父母もけっこう多かった。

011_25_3 毎年、五、六年生がきびしい共同練習をつみかさねてこの日を迎えるのだが、その踊り(振り付け)や音楽(作曲)のすべて、先生と親の共同創作であることはあまり知られていない。この子供のエネルギーを引き出したのは、5年にわたり日々重ねてきた先生や父母たちの文化的営為の賜物である。来年も、再来年も、この踊りが継承されていくのを願う。

011_27 春の始まりは、この卒業生を送る会と、校庭にある紅白の梅の木なのだが、今年は梅の咲き具合がわるいようだ。今日は天気もいいので、自転車で、花見としよう。

046 花園橋を渡るとすぐ、どうぞご覧くださいとばかり、道路ぶちに植えられているのが、この花園橋の紅梅である。町内には、ほかに名木もあろうが、これに勝るのはすくない。

068_2 西川ぞいの道には、蓮角町あたりに、タンポポが咲いていた。去年、

遠賀町

ではこの種のタンポポが目に付かないと書いたが、今年はここで数株みつけた。

20090302_dscn5527 土手で土筆を取っている婦人に、

「出てますか」と聞くと、「うんー、もう一回暖かい日が来ないとね。まだ小さいわ」

071_2 西川の土手を下ると、ここかしこに土筆が目につき、ついに土手にうずくまって土筆摘みに熱中する。土筆摘みをしながら、二月も下旬、そろそろアサツキ(胡葱)も食べごろだと思った。踏切を越えた土手の一角に、アサツキの群生地がある。自転車を押して踏み切りを越え、私の秘密にぞくするその群生地に行ってみた。去年よりも少し群生の範囲が広くなっているようだ。

Asatuki_084

日本では、このごろ胡葱という名前さえ知らない人がおおく、春菜として摘んで食べる人はほとんどいない。広辞苑をひくと、アサツキはユリ科の多年草で、葱類ではもっとも細い葉とラッキョウに似た丸い根(麟茎)を食べる。春先の葉はおいしく根も臭みがないので、軽く茹でたアサツキに、アサリ貝や魚身を酢味噌であえた「あさつき・なます」が通の春菜料理らしい。アサツキを漢字で「胡葱」と書くのは、ユーラシア大陸がその原産地だからで、キュウリ(胡瓜)、コキュウ(胡弓)などの例と同じく、東北アジアから入ってきた植物なのである。

086

昨年秋、高句麗の故地・遼寧省の桓仁に古墳見学にいったが、ホテルの食事には、茹でただけの胡葱が皿に山盛りにして出されてきた。また、古墳のある畑には、たくさん野菜として栽培されているのを見てきたばかりである。

20090303_dscn5528 帰宅してから、土筆と胡葱と裏庭の畑から茗荷(ミヨウガ)を取ってきて、三つの春菜をつかったチジミを作ることにした。土筆のハカマ取りに小一時間ついやし、土筆と胡葱を茹でて水にさらし、茗荷を洗い千切りにして、チジミを焼いた。おらが春の一日がゆっくりと終わる。

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異聞『出雲国風土記』  13

13 韓鍛の渡来と鉄文化の展開

韓鍛(からかぬち)卓素は、『古事記』応神天皇の段に書かれています。(注1)韓鍛とは、前回のべた古代朝鮮の鍛冶技術を伝えた韓・濊族系の渡来氏族です。

『古事記』の韓鍛(からかぬち)の鍛(かぬち)という漢字語は、韓鉄打(からかねうち)韓鉄冶(からかぬち)韓鉄鍛(からかぬち)韓鍛(からかぬち)韓鍛冶(からかぬち)などの漢字を当てた変化が考えられます。

福岡市西区

の元岡製鉄遺跡では、律令時代(八世紀)の製鉄炉28基が一列に並んだ大製鉄工房群が発掘されました。また「壬辰年韓鐵□□」という木簡が出土しました。「壬辰年」は752年に、「韓鐵□□」の空白は、韓鐵鍛、韓鐵冶(からかぬち)を充てることができます。

律令の「雑戸」姓(注2)に「韓鍛冶」(からかぬち)があり、公戸(良民の戸籍)に改めた記録があります。

「辛亥。伊賀国の金作部東人、伊勢国の金作部牟良・忍海漢人安得、近江国の飽波漢人伊太須・韓鍛冶百嶋・忍海部乎太須、丹波国の韓鍛冶首法麻呂、弓削部名麻呂、播磨国の忍海漢人麻呂・韓鍛冶百依、紀伊国の韓鍛冶杭田・鎧作名床ら合わせて七十一戸、姓は雑工に渉るといえども本源を尋ね要むるに、元来は雑戸の色に預らず。因ってその号を除きて並びに公戸に従はしむ。」(『続日本紀』養老六(722)年三月十日条)。

(注1)「百済の国主・照古王(六代近肖古王)が牡馬壱疋、牝馬一疋を阿知吉師に付けて貢上りき。(この阿知吉師は阿直史等の祖)。また横刀また大鏡を貢上りき。また百済の国に、「もし賢しき人あらば貢上れ」と科せたまいき。故れ、命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けて貢進りき。(この和邇吉師は文首等の祖)また手人韓鍛、名は卓素、また呉服の西素(さいそ)二人を貢上りき。また秦造の祖、漢直の祖、また酒を醸むことを知れる人、名は仁番(にほ)亦の名は須須許理(すすこり)ら参渡り来つ。」

(注2)特定官司に属する手工業者の集団。渡来人系が多く、身分的には良賎の中間とされ、良民とは別の戸籍が作られた。(『続日本紀』林陸郎注現代思潮社)

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異聞『出雲国風土記』 12

12.  山陰地方の弥生時代の大形武器とサルポ

052 近年、日本海沿岸部の弥生後期の遺跡や墳墓から大形武器の出土例が増加しています。池淵俊一氏の報告(註1)、村上恭通氏の著書(註2)を参考にして、日本海沿岸部の鉄器文化の源流をさぐってみます。
 鳥取県の四隅突出墳墓・阿弥大寺墳墓群の大刀(図3-1)、鳥取・宮内第1遺跡の大刀(図3-2)は、両方とも茎部の長さははっきりしませんが、全長にたいして茎部がかなり短いことがわかります。
 池淵氏は「舶載の素環頭大刀の環頭部を断ち切り別の刀装具に付け替えたものと考えられ、古墳時代前期の大刀の先駆け的存在」と言っています。
九州出土の鉄剣にも茎部が短く、目釘穴がないものがあります。これは茎部が短い細形銅剣の装着法をうけついだタイプと見られます。日本海沿岸部の類例にも、石川・寺井山6号丘の鉄刀(刃渡り約40cm)・鉄剣のように茎部が短く、まだ目釘穴がないものがあります(図3-2)。

499_67_2素環頭大刀は、中国で出現したときから柄のにぎる部分が短く、片手で振りまわす武器だったようです。それは近代のいわゆる青竜刀までつづく中国武術の伝統で、円環部は手の滑り止めの役割をはたしており、環頭はすっぽ抜けるのを防ぐために大きく、さらに手に巻きつける紐状のものがついていたようです。柄の部分が長い刀、いわゆる直刀は古墳時代になって増加します。柄の長い刀は、両手を使って斬る武器であり、柄の部分が実戦の打撃に耐えるためには、素環頭大刀の環頭部が取れて、長い柄部を固定するための目釘穴が付くようになります。
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また図2左の鋳造斧は、高句麗・濊・新羅地域に普及した鉄器です。右の斧とされる鍛造品は、刃が下につき、棒状の柄が付くもので、韓国でサルポといわれる農具に近い形をしています。韓国では、サルポは古代の王が権力の象徴として、儀仗のように用いたという伝承があります。この種の鉄器が大和最古の前方後円墳・ホケノ山古墳から出土していることも、韓・濊・山陰ルートで鉄器が入ったことを物語る一証左ではないかと思います。

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異聞『出雲国風土記』12ーⅰ

もう一人のスサノオ499_107 

  スサノオは記紀の正伝には、高天原から追放されて、出雲の簸川の川上(鳥髪山)に天降ったとなっていますが、『日本書紀』の一書(第四別伝)には、初めに新羅の国に天降ったと書かれています。

すなわち「この時、スサノオはその子・ 五十猛神(イタケル)をひきいて新羅の国に降られ、曾戸茂梨(ソシモリ)におられましたが、『この地には居たくない』と言われ、埴土で舟を作り、これに乗って、出雲国の簸の川上にある鳥上の峰に到着した、と書かれています。

スサノオの子・イタケル神は、別名を有功之神(イサオの神)、伊太祁曾神(イタキソの神)、伊太祁神(イタキの神)とも言い、また韓国伊太氐神(カラクニイタテの神)、また韓神・曾保利神とも言われます。また、新羅の曾戸茂梨について、飯田季治『日本書記新講』は、「新羅の地名であるが今詳らかではない。(宮中に伝わる)高麗の楽曲のなかに蘇志摩梨(そしまり)という曲がある。一名を廻庭楽と云う。その曲は皂(くさいろ)の羅衣(うすぎぬ)を着し、蓑笠を着た二柱の神人が舞い奏でるのもので、高麗最古の楽曲である。これ即ち素戔鳴尊が天原を遂われて、天降り給いしとき、霖雨が止みなく降りしきるので、青草を結い束ねて蓑笠とし、辛苦しつつ天降ったことを舞曲に作りなせるもので、その時、五十猛神を率いて、新羅国の曾戸茂梨に降られたので、その楽曲を蘇志摩梨という」と解説しています。

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のちに、スサノオを牛頭天王(ごずてんおう)という名前でよぶようになりますが、これは曾戸茂梨(ソシモリ)が、韓国語で(牛の頭)という意味からきているようで、戦前にはその地を韓国の牛頭山という山だとする説もありました。明治憲法ができて、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹きすさんだ後は、日本の渡来系氏族の祖神を祀っていた神社は、みな氏族の祖神を素戔鳴尊に代えたようです。さて出雲国風土記には、韓と関わりがありそうな社名の神社がいくつかあります。①韓(からかま)社(出雲郡)、②加夜社(神戸郡)です。銍は(金へんに至と書いて、チツとよむ。膣に通意)金属をつくりだす容器の意味。韓銍の字義からやはり私は金属精錬に関係がある神社と考えています。

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〔写真は出雲の韓式土器。カマドで使われたコシキ。食物を蒸して食べる中国、朝鮮から入った食文化の調理用具〕

①韓かま社は延喜式神名帳に韓窯社とあり、平田市唐川町にあり、スサノオが祭神です。社名については、湯立て神事の窯に由来するとか、渡来人がはじめた製鉄の溶鉱炉に関係があるとか、諸説あります。しかし、古い製鉄の用語で、溶鉱炉で鉄を溶かすことを「湯を立てる」と言い、溶けた鉄のことを「湯(ゆ)」と言いました。溶けた金属を鋳型に流し込むことを「鋳立てる」と言いました。また、台所に造った竃(かまど)の窯も、焼物の窯も、韓国語では今も、カマです。それで私は、出雲の韓窯社は、韓からきたもう一人のスサノオ(製鉄神)を祀った社と考えるのです。 ②加夜社は延喜式に記載のない神社で、出雲市稗原町の市森神社(祭神・阿陀加夜努志多伎吉比売・あだかやぬしたききひめ)とされ、所在地には異説があります。ほかに、『出雲国風土記』ができた天平五年(733)から二百年ほどあとにできた『延喜式神名帳』に、風土記にない韓国伊太氐神社が意宇郡に③~⑤三社、出雲郡に⑥~⑨三社あります。韓国伊太氐神社は、先にのべたスサノオの子・イタケル神の韓国伊太氐神と同名です。伊太氐は「湯たて」「鋳たて」に由来します。スサノオには、韓から来た鍛冶・製鉄神という伝承が付きまとっているようです。

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異聞『出雲国風土記』 11

11. 鉄で結ばれていた韓・濊・倭

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『魏志』東夷伝・韓条には、「桓帝から霊帝の末(147~189)になると、韓濊の力が盛んになって、楽浪郡やその配下の県の力ではそれを制することができず、民衆は多く韓国に流入した。建安年間(196~220)、公孫庚は屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を作り、公孫摸や張廠らを遣ってこれまで取り残されていたその地の中国移住民たちを結集し、兵を起こして韓濊を討たせた。その結果、韓国に流入していた移住民たちも少しずつ戻ってくるようになった。これ以後、倭と韓とは帯方郡の支配を受けることになった。」(韓条)と書かれています。  建安以後、公孫氏の韓濊討伐と帯方郡設置に続いて、魏が公孫氏を討って遼東を平定してからは、倭と韓は魏・帯方郡の支配を受けることになったのです。これは、三世紀の朝鮮と倭国の状況を理解する大事な視点です。

105 〔写真:鳥取県青谷上寺地出土の朝鮮半島系鉄器。左:鋳造品、右鍛造品〕 

また、「この国(韓)は鉄を産し、韓・濊・倭それぞれここから鉄を手に入れている。物の交易にはすべて鉄を用いており、ちょうど中国で銭を用いるようにである。またその鉄を楽浪と帯方の二郡に供給している。」(韓伝)と書かれています。これは倭と濊が韓地での鉄生産や交易をつうじて、ふかい関係を持っていたことがうかがえます。とくに韓地では、交易に鉄器を貨幣の代わりに流通させていることがわかります。写真右の鍛造品は斧というより、刃先が下につく鍬状の鉄器に、長い棒状の柄が付くもので、韓国でサルポといわれる農具に近い形をしています。

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異聞 『出雲国風土記』 10

499_14 [写真:出雲の清水寺」

10.大蛇から出た韓の刀という伝承

「スサノオは、クシナダヒメを櫛の姿に変えて自分の髪にさし、オロチを退治するため、八つの門と桟敷の付いた垣根を
作らせ、桟敷ごとに強い酒をいれた器を置いておきます。  やがてオロチがきて、器ごとに頭を突っ込んでその酒をのみ、酔ってそのまま寝てしまいました。スサノオが、自分の十拳剣でオロチを斬ると、肥の川が血にかわって流れました。
それでこんどは、オロチのまん中の尾を切ると、剣の刃が欠けました。  スサノオは怪しく思い、剣でオロチの尾を割いてみると、「都牟刈(ツムガリ)の大刀」(注1)がありました。499_85

スサノオは、出雲の須賀の地に新婚の宮をつくり、クシナダヒメと結婚しました。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 」『古事記』出雲神話に初めて登場した大和系のスサノオは、クシナダ姫を妻に、たくさんの子孫を残します。出雲を治めた大国主命もその一人なのです。

注1「この剣を「蛇の韓鋤(オロチノカラサヒ)」という。古代韓国語で、鋤はtsapoという。日本語のサヒ(小刀)に当たる。またこの剣を「草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。この剣は昔、スサノオの許にあり。今は尾張の国にあり。そのスサノオの蛇を斬りたまえる剣は、今、吉備の神部の許にあり。」(岩波文庫『日本書紀(一)』注)

 オロチ退治の最後に、大蛇の尻尾から「蛇の韓鋤」(オロチノカラサヒ)」(大蛇から出た韓の刀)が出現しているのは、この神話の起源が出雲の製鉄にあることを示しています。また大蛇から出た剣を (韓・カラ)の(刀・サヒ)と伝えるのは、その鉄刀を作った刀鍛冶や製鉄技術者が海のかなたの韓・濊から来たことがうかがえます。ところで、この「韓の刀」はどんな形をしていたのでしょうか。

万葉集に、高麗剣(こまつるぎ)が(わ:環)や(な:刀・かたなの古称)の枕言葉になっている歌があります。

高麗剣、わが心から外のみに 見つつや君を恋わたるらむ   (巻十二-2983)

剣太刀名の惜しけくも吾はなし このころの間の恋のしげきに (巻十二-2983)

万葉集が編まれた八世紀の中ごろ、刀の柄先に環のついた、ひとむかし前の「素環刀」を高麗剣と呼んだことがうかがえるのです。

034

『出雲国風土記』の意宇郡忌部神戸条には、「国造が神賀詞を奏しに朝廷に参向ふとき、御沐(みそそぎ)する忌里なり。故れ忌部という。川の辺に温泉あり。一たび濯(そそ)げば、形容(かおかたち)端正(きらきら)しく、再び浴(ゆあみ)すれば、万病悉(ことごと)く除かる。古へより今に至るまで、験(しるし)をえぬはなし」と書かれています。この温泉に入ると、女性は美人になるし、どんな病気でもみな治るというわけです。私たちも、忌部里ちかくの「湯の川美人湯」(島根県簸川郡斐川町学頭1329-1)に泊まって、旅の疲れを癒しました。この宿の料理のうち、卵焼きが秘伝だそうですが、どの料理もみなほんとうに、おいしかったですよ。

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異聞 『出雲国風土記』 9

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オロチ退治の神話が風土記にない理由(3)

〔写真・『出雲国風土記』江戸時代の版本〕

私は『出雲国風土記』の末尾に最終筆録者として署名をした「国造帯(かつ)意宇郡大領 外正六位上 勲十二等 出雲臣広島」に注目しています。出雲臣広島の先祖は、すでに前回、意宇郡の熊野大社の稿でふれたように、スサノオが出雲に来る前から意宇氏をなのり、意宇川流域の開拓につとめ、農業神を祀っていた祭祀集団だったようです。その子孫である「出雲臣広島」は、自分の先祖がヤマト系のスサノオではないことを、いちばんよく知っている人物ではないかと思います。この出雲国風土記の完成年月は「天平五年五月(733年)」で、『風土記』を撰進せよという官命が出された和銅六年(713年)からすでに二十年もたっています。和銅五年(712年)には太安萬呂の『古事記』も出ており、そこに書かれたヤマト系の創作された神話のあれこれが、「出雲国造かつ意宇郡大領」の「出雲臣広島」の耳に伝わっていた可能性は大いにあるでしょう。

499_63

〔玉造遺跡の竪穴住居〕「出雲臣広島」は自分の出自(先祖)伝承がヤマト勢力から書き換えられたことについて、記紀神話への憤怒の思いがあったようです。「出雲臣広島」が署名した『出雲国風土記』には、スサノオの八股の大蛇退治の神話が載っていないだけではなく、「記紀への歩み寄りが全くみられない」(萩原千鶴「解説」『出雲国風土記』講談社学術文庫)といいます。他の風土記は、天皇の巡行による地名起源を常套的に語るのに対し、『出雲国風土記』にはそれが皆無であり、それに代わって記紀にない神々の巡行や村々に祀られた三百九十九社もの神社の地名を載せるのです。

499_33 〔熊野大社火きり殿〕

また、他の風土記は、「昔、

)

美痲貴(みまき)

の天皇(すめらみこと)馭宇(あめのしたしらしめ)

)

(

)

しし世に(『常陸国風土記』)などと、その国の過去の時間を天皇の時間枠にはめこんで歴史化するのに対し、『出雲国風土記』の神々は、常に出雲固有の時間と空間のなかに位置付けられている(萩原千鶴「解説」)といいます。
『出雲国造神賀詞(いずもこくぞうかんよごと)』は、律令時代の新天皇の即位儀礼に、出雲国造が朝廷に参上して、皇位継承をことほぐ祝辞をのべるということですが、その実態は出雲国造の朝廷服属儀礼にほかならないのです。代替わりのたび服属儀をかさねる出雲臣広島の無念が『出雲国風土記』から伝わってくるようです。

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異聞 『出雲国風土記』 8

オロチ退治の神話が風土記にない理由2

499_27 [写真は熊野神社鳥居]出雲の熊野神社は、意宇川(おうがわ)の上流に祀られています。いまの祭神はヤマトから入ったスサノオ神で、火をきり出すわざを教えた神ということになっています。しかしスサノオ神が入る以前の意宇には、食物神の神魂(カモス)神がまつられ、そのカモス神を祀った司祭者・意宇氏の子孫が出雲国造家の千家(せんげ)、北島(きたじま)の両家だと言われています。ヤマトの勢力と手をむすんだ意宇氏は、のちに出雲国造家となりましたが、政治の実権はヤマトに奪われ、祭祀権だけをゆるされて、杵築のほうに追いやられました。意宇氏がさいしょに熊野大神を祀った所は、近くの天狗山(610m)頂上にある磐境(いわさか・祭祀場)だといわれています。(加藤義成「古代出雲王国」『古代王国の謎』角川文庫)

[写真は、意宇川上流]『499_29 『出雲国造神賀詞(いずもこくぞうかんよごと)』によると、その磐境に祀られた熊野最古の神の名前は、「伊射奈伎乃日真奈子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」(イザナギノヒマナコカブロギオオカミクシミケヌノミコト)という長い名前です。この神は、記紀に伝える天地創造にあたったイザナギ神の御子ということになっています。出雲の数多い神々のなかで、この熊野大神だけが天つ神に入っているのです。なぜでしょう。ヤマト勢力とさいしょに手をむすんだ意宇氏が、意宇川流域(東出雲)の統合をはたし、やがてそこにヤマト政権の支配機構の出雲国庁や国分寺、国分尼寺がつくられ、古代出雲の政治と文化の中心になっていく歴史がうかがえます。 意宇氏はその功績で、先祖神を天つ神にしてもらったのではないでしょうか。

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異聞 『出雲国風土記』 7

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―オロチ退治の神話が風土記にない理由1―『古事記』によると大国主神(オオクニヌシ)をはじめとする出雲神話の神々は、高天原を追放された須佐之男命(スサノオ)の子孫になっています。いっぽう、『出雲国風土記』に出てくる出雲神話には、スサノオはじめ高天原系の神々は、ほとんどだれも姿をみせないのです。 高天原を追放されたスサノオが、奥出雲の肥の川上流で繰り広げた、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治の有名な神話さえも、風土記には見られないのです。なぜでしょう。

高天原を追放されたスサノオは、出雲の肥の川(今の斐伊川・写真、天井川で有名)に天降りますが、川辺で一人の娘を連れて泣いている老夫婦に会いました。わけを聞くと、川上に八股の大蛇(ヤマタノオロチ)がいて、毎年来て娘を食ってしまい、残ったのはこの櫛稲田姫(クシナダヒメ)だけと泣きます。

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オロチはどんな姿かと聞けば、「その眼は赤かがち(ホオズキ)のごとく真っ赤で、身ひとつに八つの頭、八つの尾あり。またその身に苔と檜・杉が生え、その長さは谷八つ、崗八つにわたり、その腹を見れば、どこもみな爛れて血がながれている」といいます。このヤマタノオロチの姿は、出雲で砂鉄を原料にたたら製鉄が始まる古墳時代後期(六世紀後半)ごろ、山の斜面に水樋をひいて砂鉄を取るカンナ流しの情景と、谷間ごとに製鉄炉の火を燃やした斐伊川上流のタタラ製鉄の描写にほかならないのです。       

499_71[写真:景初三年銘の三角縁神獣鏡が出た神原神社古墳]、この古墳は斐伊川]の堤の上に作られており、斐伊川]の治水に功績のあった首長の墓でしょう。漢字学者で『学研漢和大字典』を編集した藤堂明保氏(故人・東大教授)は、最後の著書になった『中国遺跡の旅』(旺文社文庫)のなかで、中国の竜蛇信仰との関連で、出雲の八股のおろち伝承をとりあげています。

「肥の川(火の川)は太古からタタラ製鉄の盛んな地で、砂鉄の赤い色が流れを染め、吹きあげるフイゴの火の粉が川の面に赤くうつります。火がもえているようなのでヒノカワと呼んだのでしょう。しかし製鉄用の炭を得るため大量の木を切るので、山肌が荒れて水害を起こします、その荒々しい水の精が八股の大蛇でした。川の下流の水田を守るにはこの大蛇の動きを封じなければなりません。櫛稲田姫という名がしめすように、この姫は水田耕作民の代表です。スサノオとは「須佐という地の男」という意味で、外来の男と土地娘、このふたりのしあわせな生活は、悪蛇を封じ込めることによって保障された―というのが、この説話の筋なのです」と解説しています。 

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